5月29日から6月1日まで3泊4日(実質2日)の居住地域の社会福祉協議会のボランティアに参加しました。
70才近い今まで、神戸震災、長岡震災など知り合いや、身内などがボランティアをしてはいますが、私ははじめてでした。
今回、募金はしましたが、それだけではすまない何かしたい、しかし遠いなあと思っていたところ、社会福祉協議会の呼びかけがあることを知り、体が言うことをきくだろうかと思いながら、色々と養生をして準備を整え行きました。
総勢22名、地域の観光バス会社と旅行会社がボランティアとしてバスと社員をだしてくれました。
この震災がおきなければ、岩手県の山田町も大槌町も名前をきっと知らずにいたと思います。
途中経由した遠野からの道すがら、この深い連山の向こうに釜石がある、そこになぜ近代製鉄所が出来たのだろうかと不思議に思いながら、トンネルを抜け被災した街に入りました。
製鉄所に沿った道には「津波被災の危険地域」という看板が目に付き、以前から津波への備えはあった、しかし、それでも大被害を免れることはできなかったのかと驚きました。
翌30日の山田町での活動は、雨だったため最初は屋内での支援物資の整理、午後になって入居前の仮設住宅での支援物資の配布をしました。
この仮設住宅での印象が大きく残っています。
大雨で、通路が水浸し、床下浸水が心配されるほど住宅の床と地面が近い、一枚ガラスの窓、仮設とは云え何年も生活するのに冬は寒いだろうと思いました。
一方、その住宅に衣食住に必要な様々なパックされた支援物資が、手際よく搬入され、とりあえず安らげる環境が素早く作り上げる。
いくつもの場所でのこの作業のため、トラック配送、現地での選り分け、人員配備などなど、ボランティアセンターが分刻みで計算し、その通りに動く、これは見事なものでした。多元一次方程式のn乗を見事に解いているような感じを受けた程です。
ボランティアセンターがあれば、政府も国会も官僚も機能しなくても金さえ無条件に使えるようにだけしておけば、復旧事業は機能するというほどです。
31日の大槌町では、個人宅での作業。港から2Km、まさかここまでクルとは思わなかったのに、内桟橋までが家の前まで来たと話していました。
自衛隊によるガレキの撤去があって我々のような各地から来たボランティアが日を替えて作業できる状況でした。
作業場床下の海水に運ばれた泥出しでした。
泥だしと言ってもガラスの破片あり、何もかもありで、個人宅をそこの人たちだけではとても不可能な作業です。大勢の人たちが集まってやってもどのくらいかかるのか。
作業を始めた頃の硬い表情だった被災された方が終わって去る前に被災当日の状況を話してくれた時は和らいだ表情になっていたのが印象的でした。膨大な被災の一部ではあっても、目に見えて片付いたことの実感、そして胸の思いを吐き出せることが少しの間でも緊張感を楽にしたのか。
しかし、先はもっと長い、緊張と疲労で体を壊さないように願うばかりです。
両日の往復で車窓からみえた膨大なガレキの山と処理する重機の小ささ、機能が全く残っていない街、漁港….。
更地を開墾して人々が住まう方がずっと楽、長く継続した復旧支援活動が必要だと実感しました。
今でも、大勢の人が実際に関わっていますが、さらにもっと関わって欲しいと思います。
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